グリーフの勉強をしていると、「公認されないグリーフ」というのが出てきます。その故人との関係性や、死因、その他の要因で公的に悲しむことを許されない/出来ないケースがあり、その結果十分なサポートが受けられず、グリーフが複雑化(長期化、深刻化など)する傾向がある、という考え方です。
一般的には、愛人関係、ゲイ、自死、死産などがこういったケースに当たりますが、私は、友人にゲイが多いので、ゲイのグリーフに特に興味を持っています。興味、というのは適切な言い方ではないかもしれませんが、その悲しみの質に心を痛める者である、ということです。 続きを読む
死別の経験、特にその痛みが比喩としてどう表現されているのでしょうか。
もちろん死別体験者の方は「そんなこと説明してもらわなくても痛みは知っている」「比喩に意味があるのか」と感じられると思いますが、喪失をどのような経験や痛みに例えるのかというのは非常に興味深い問題で、ただ「痛い」というだけでなく「どのように痛い」と表現することは「痛みとの付き合い方」とも深い関係があるのではないかと考えています。
最近読んだ「妻を看取る日~国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録~」【著者:垣添忠生(新潮社 2009年 1300円)】には外国の文献の引用として「サメに襲われて手足をもぎとられたような感じ」「体のどこかに深い穴が開いて、そこから血が滴っているような感じ」といったようにシャープな痛みから鈍痛のような痛みまでが表現されています。さらに著者は医師であることから、妻の死のショックからの回復を傷の治癒になぞらえてこう的確な表現しています。 続きを読む
その歌を初めて聞いたのは以前から非常に好きだった映画、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の挿入歌としてでした。このミュージカル仕立ての映画の中の歌のひとつ、「愛の起源」の歌詞は、
古代人間の本来の姿は二人が一対に融合した形をしており、4本の手、4本の脚を持っていた。当時の人間は非常に気高く力強く、神に挑戦するほどであった。 それを冒涜と怒ったゼウスは稲妻をもって二人を切り離す。以後、人間は再び「全き」ものとなるべく、失われた半身を求め続け、その気持ちが愛の起源なので ある
といったようなストーリーで、エミリー・ハブリーによるアニメーションが印象的でした。
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家族が私を偲ぶに ふさわしい出来
2010年11月、私はある葬儀関係の展示会に出席していました。そこでお隣にあったのが今まで見たことの無いようなすばらしい遺影写真を撮ってくれるフォトスタジオのブースでした。それが東京の中野にある「素顔館」(館長:能津喜代房さん)。
今まで、様々な機会にいろいろな方から「遺影は生前に撮るべき」というお話を聞いた事があります。理由を聞けば納得して頂けるでしょうか。 続きを読む
玄関先にある「起き上がる棺」:いったい何のために、と思わせる一品
2010年11月、私はスイス本社にて行われたアルゴダンザのアジア地区パートナーミーティングに参加し、その際にスイスのスタッフに勧められたのがきっかけで、私はウィーンの葬儀博物館を尋ねる事にした。迎えてくれたのはひげが素敵で情熱的な館長のウィッティゴ・ケラー氏。アルゴダンザから来たというと非常に歓迎してくれ、案内をかってくれた。 続きを読む