盛岡でもようやく桜が咲き始めた
4月19日、私はGCCの鈴木剛子先生、麗澤大学の水野治太郎名誉教授、GCCの卒業生や現役生徒と共に盛岡を訪れました。20日に行われる、岩手医大の智田文徳医師が主催する「精神科医によるリラクゼーション・ワーク体験」のファシリテーターを務めるためです。新幹線はまだ動いておらず、羽田から花巻空港に飛んでから、バスで盛岡にたどり着きました。
東日本大震災の後、グリーフカウンセラーとして何かできることはないかと考えていましたが、なかなか単身乗り込んで役に立つものでもなく、悶々としていたところに鈴木先生から声をかけて頂いて、渡りに船と参加することになりました。 続きを読む
渡辺医師が学生時代に感銘を受けた星野富弘画「たんぽぽ」。余分なものを捨てて(大切なモノだけ残せば)空を飛べるような気がする
2月26日、静岡で「スピリチュアルケアを隠し味にした」医療をされているタンポポ診療所の遠藤博之先生の講演、「本当に大切なもの」:共に病み、共に癒され、共に歩む、に出かけました。(タンポポ診療所とその医療、医療の背後にある考え方についてはこちらの記事に詳しいのでご覧ください)
遠藤先生は以前、作家の太田宏人さんに紹介されて、ぜひお目にかかりたいと思っていた方ですが、何しろ在宅の緩和ケアをされているということで「とにかく忙しい」と聞き、少々遠慮しているうちに遅くなってしまっていました。先生の温かい人柄の感じられる、ユーモアにあふれた講演でしたが、私自身として2つの点が特に勉強になりました。 続きを読む
グリーフの勉強をしていると、「公認されないグリーフ」というのが出てきます。その故人との関係性や、死因、その他の要因で公的に悲しむことを許されない/出来ないケースがあり、その結果十分なサポートが受けられず、グリーフが複雑化(長期化、深刻化など)する傾向がある、という考え方です。
一般的には、愛人関係、ゲイ、自死、死産などがこういったケースに当たりますが、私は、友人にゲイが多いので、ゲイのグリーフに特に興味を持っています。興味、というのは適切な言い方ではないかもしれませんが、その悲しみの質に心を痛める者である、ということです。 続きを読む
死別の経験、特にその痛みが比喩としてどう表現されているのでしょうか。
もちろん死別体験者の方は「そんなこと説明してもらわなくても痛みは知っている」「比喩に意味があるのか」と感じられると思いますが、喪失をどのような経験や痛みに例えるのかというのは非常に興味深い問題で、ただ「痛い」というだけでなく「どのように痛い」と表現することは「痛みとの付き合い方」とも深い関係があるのではないかと考えています。
最近読んだ「妻を看取る日~国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録~」【著者:垣添忠生(新潮社 2009年 1300円)】には外国の文献の引用として「サメに襲われて手足をもぎとられたような感じ」「体のどこかに深い穴が開いて、そこから血が滴っているような感じ」といったようにシャープな痛みから鈍痛のような痛みまでが表現されています。さらに著者は医師であることから、妻の死のショックからの回復を傷の治癒になぞらえてこう的確な表現しています。 続きを読む
その歌を初めて聞いたのは以前から非常に好きだった映画、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の挿入歌としてでした。このミュージカル仕立ての映画の中の歌のひとつ、「愛の起源」の歌詞は、
古代人間の本来の姿は二人が一対に融合した形をしており、4本の手、4本の脚を持っていた。当時の人間は非常に気高く力強く、神に挑戦するほどであった。 それを冒涜と怒ったゼウスは稲妻をもって二人を切り離す。以後、人間は再び「全き」ものとなるべく、失われた半身を求め続け、その気持ちが愛の起源なので ある
といったようなストーリーで、エミリー・ハブリーによるアニメーションが印象的でした。
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