死産を考える(1):グリーフ研究から


グリーフケアの勉強をする中で驚いた事の一つに死産の数の多さがあります。日本の周産期の死亡率は世界第一の低水準にあります。しかし、2010年の厚生労働省の統計によると、法的な死産の定義である12週以降の死産は27,000件と報告されています。近年、自死の数が年間30,000件を超えた事が話題になり、グリーフケアの観点からも、その遺族の悲しみには心を痛めていましたが、それに近い数の家族が、子供の死を経験しているのです。
そして、これだけ多くの人が死産を経験しているのに、そのことは一般的には知られてるように思われません。ここには、死産の「沈黙の性質」があるのではないか、と感じます。流産もそうですが、周産期の死は「公認されないグリーフ」(詳しくはこちら)になるケースが多くあり、語られない死の様相を呈する事がしばしばです。
「まだ生まれていなかったから」と子と親の関係性は「無かった事」にされがちですし、生まれなかった子供は「次の子供で取り換えがきく」存在だと考えられがちです。その死が早かった事を「障害が残るよりよかった」と全く勘違いの慰めの声を掛けられることもあります。また近年、結婚、出産の平均年齢が上昇している事で、赤ちゃんの妊娠、出産は比較的短い期間に計画され、実行される必要があります(結婚してから出産に適齢な年齢の上限まで時間が少ない)。死産してしまったというようなケースでは、それをゆっくりグリーフする間もなく、次の妊娠に「前向きになる」必要を感じる事もあります。ここでは周産期の死に関して特徴的な側面を描いていきたいと思います。

死児を出産する事

胎内で赤ちゃんが死んでしまったとき、妊娠12週以降では多くのケースで人工的に陣痛を起こさせて赤ちゃんを「出産」する事が一般的なのだそうです。冷静に考えてみれば、わかる事なのですが、正直、最初聞いたとき、実は非常にびっくりしました。むごい、そう思いました。すでに医師からおなかの中の赤ちゃんは死んでいる事、助かる事はないという絶望的な告知を受け、親は悲しみの底にいますが、そこでその赤ちゃんを「出産」しなくてはいけない、という事実を母親はどう受け止めるのでしょう。想像しただけでも無力感に襲われる考えだと思います。「死産を考える」の第2回で見るように、医療者の導きによっては、この出産に意味を見出すことが出来る事もありますが、どれほどの母親が孤独、絶望、怒り、悲しみと自責感のうちにこの経験をしているでしょうか。

医療機関における二次被害

流産、死産は医療の現場である意味切り捨てられてきました。医療者にとって、人は死ぬとそれは「モノ」になってしまう傾向があります。人の死は敗北であり、死産を経験した患者家族に対面するトレーニングはほとんど受けておらず、流産、死産を迎えなければならなかった親にどう接していいのかがわからないことが多いようです。流産、死産の体験者のお話を聞くと、ずいぶんとそうい言った医療機関での二次被害を訴える人がいます。

「私が出産したとき、なぜか外来で働いている助産師さんや看護師さんまで見学に来ていました。 私のようなケースが珍しいのか、興味本位で集まっているようでした。 私の足下で出産までの時間、ぺちゃくちゃと関係のないおしゃべりをしていました。そして、出産し、トレーにのせられた私の赤ちゃんを、まるで死んだ猫か犬でも見るような目でみていました。私は彼女たちの表情を見ただけで、赤ちゃんに会ってはいけないような気がしてしまいました。」( 『赤ちゃんの死を前にして』中央法規出版)

「何よりも赤ちゃんを大切に扱ってほしかったと思います。 私が赤ちゃんを出産したとき、『出た』といわれました。 私は出産したという気持ちだったのに・・・、人として扱われなかったようで、すごく悲しかった」。( 産科医、竹内正人の紹介する例)

夫婦間の関係の問題

父親は、子供を持つことの希望は共有しています。妊娠をし、徐々におなかが大きくなっていく事を喜ばしく感じた時間を共有した事もあります。それでも、父親は母親に比べて親になるのに時間がかかるものだと思います。特に初めての子供を迎える父親にとって、fatherhood(父である事)は、子供の誕生の時には未だ始まっていないに等しいかもしれません。往々にして男性は、より深く傷つき、自らを責めて打ちひしがれている妻を支える事が自分の役目だと感じ事もあります。自らの悲しみは後回しにして「しっかりする」必要があると感じる事もあるでしょう。
こういった立場の違いや、男女の喪失の悲しみの表現の違いが夫婦関係に大きなストレスを与えます。離婚率が上昇する事が知られていると同時に、一緒にこの大きな喪失に向きあったことでパートナーの絆を強めるカップルもいます。

死んだ赤ちゃんとも関係を持てるという考え方

驚くほど最近まで、「母を死んだ赤ちゃんに合わせるのは、母の悲嘆からの回復を遅らせる」と信じられ、医療の現場でもそのような扱いがスタンダードでした。赤ちゃんを胸に抱くことはもちろんなく、一目見る事もなく処分されたり、火葬されたりすることが稀ではなかったのです。しかし近年、生まれた赤ちゃんとの関係性を見直す動きが活発になり、徐々に、流産、死産においての医療機関での取り扱いに変化が見られるようになってきました。残念ながら、まだすべての医療機関とは言えませんが、流産、死産の経験者、助産師などが協力して、「生まれなかった子供も確かに存在したのだという事」、「想い出を遺す事がタブーでない事」が少しずつ広められてきています。実際には、

  • 胎児との対面:数百グラムの胎児とも対面するという選択肢がある
  • 適切な対面の場所の提供と対面時間の延長。
  • 命名
  • 火葬が必要な場合の、棺に代わる箱の用意。
  • ごく小さいベビー服:ボランティアの手作りの事が多い
  • へその緒や髪の毛を形見とする、手型・足型をとる、写真を撮るといった事をタブー視しない
  • 火葬を急がせない。
  • 赤ちゃんを冷蔵庫に入れないという選択肢がある事を伝える。

といった様に、思い出を作る時間の限られている赤ちゃんと両親を医療機関が支援し、ゆっくりお別れをしたり、遺品を遺せるようにするといったことが行われて始めています。

こういった死産についての勉強の中で、私は一人の医師、竹内正人氏を知り、その著書、「赤ちゃんの死へのまなざし」を手にしました。
この本は死産を体験した井上文子、修一夫妻の手記を中心に、第一子「和音」ちゃんを死産した経験、そしてそのあと妊娠、和音ちゃんを死産した病院で出産した経験から学ぶ「赤ちゃんの死へのまなざし」の本です。次回はこの本を紹介します。

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