ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ:失われた半身を求めて
- 2011年01月19日
- グリーフ, 書評・映画評・美術評
その歌を初めて聞いたのは以前から非常に好きだった映画、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の挿入歌としてでした。このミュージカル仕立ての映画の中の歌のひとつ、「愛の起源」の歌詞は、
古代人間の本来の姿は二人が一対に融合した形をしており、4本の手、4本の脚を持っていた。当時の人間は非常に気高く力強く、神に挑戦するほどであった。 それを冒涜と怒ったゼウスは稲妻をもって二人を切り離す。以後、人間は再び「全き」ものとなるべく、失われた半身を求め続け、その気持ちが愛の起源なので ある
といったようなストーリーで、エミリー・ハブリーによるアニメーションが印象的でした。
ところがこの歌についてさらに調べてみると、この歌には原典があった事を発見しました。それがプラトンの「饗宴」の中でアリストパネスが語っているお話 で、内容はほぼ歌詞のとおりでした。改めてこの歌の部分を何度も見返してみると、この比喩が喪失、特に愛する人を亡くした時の痛みや、その「失われたものを追い求める気持ち」、を非常にぴったり表現しているのではないかと感じ、また、喪失と共に生きる為のグリーフワークを説明する観点からも最適なのではないかと感じるようになりました。
人間は愛する人と共に生き、人生を共にすることでお互い影響され、考え方や価値はお互いに影響されて融合し、一種境界線があいまいになったような状態にまで進むのではないでしょうか。それを無理やり引きはがされる痛み。それ以後の人生を共有できない痛みは、この歌で歌われているイメージによってうまく表現されていると思います。
そして、半身を失った私たちは、無駄だと知りつつその失った半身を求めてさまよい歩くのです。
全米各地を旅する売れないロック歌手のヘドウィグは共産主義体制下の東ドイツで生まれた。幼い頃のある日、母親は息子がアメリカに渡れるよう、彼に名前とパスポートを与え、性転換手術を受けさせた。だが手術は失敗し、股間には「怒りの1インチ(アングリー・インチ)」が残された・・・。
失われた半身を求める旅は過酷なものです。なぜならそれは決して報われることのない希望や願いであるからです。また百歩譲ってその半身を見つけ、自身に融合させようと試みても、離れていた期間にお互い変形した半身は元の通りに「ぴったり一つ」にはなれず、接着剤でくっつけたような悲しい形になってしまうのではないでしょうか。
原典の「饗宴」によると、このエピソードの最後はこのような内容で結ばれています。
「神の友となり、これと結合しているとき、われわれは本来われわれ自身のものなる愛人を発見することも、またこれに出逢うこともできるであろう、―――もっとも今日これに成功する者はきわめて少数に過ぎないけれども。(そして最終的には)神々に対して畏敬の念を失わぬかぎり、われわれをして最大の希望を抱かしめる、すなわちそのとき彼はわれわれを昔ながらの本性に還らせ、われわれの病を癒して、ついに天福と幸慶とを享けさせるからである。」
アリストパネスは、それでも失われた半身との再融合は究極的には可能だと言っているのです
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