スピリチュアルケア:共に病み、共に死に、共に癒され、共に歩む
2月26日、静岡で「スピリチュアルケアを隠し味にした」医療をされているタンポポ診療所の遠藤博之先生の講演、「本当に大切なもの」:共に病み、共に癒され、共に歩む、に出かけました。(タンポポ診療所とその医療、医療の背後にある考え方についてはこちらの記事に詳しいのでご覧ください)
遠藤先生は以前、作家の太田宏人さんに紹介されて、ぜひお目にかかりたいと思っていた方ですが、何しろ在宅の緩和ケアをされているということで「とにかく忙しい」と聞き、少々遠慮しているうちに遅くなってしまっていました。先生の温かい人柄の感じられる、ユーモアにあふれた講演でしたが、私自身として2つの点が特に勉強になりました。
一つは最近迷っていた「ケア」という用語についてです。
グリーフの勉強をするのにあたって、あるいはグリーフカウンセラーとして、最近なんだか「グリーフケア」という用語に漠然とした居心地の悪さを感じていたのです。グリーフは本来「治療される」べきものではありません。グリーフに苦しむ個人がそれぞれグリーフと共に生きる方法を見つけ出す必要があり、そこには特効薬も近道もないのです。
そういった前提に立った時に「グリーフケア」ではなんとなく居心地が悪い感じがしていました。グリーフにまつわる用語の定義がはっきりしていないせいなのか、「グリーフサポート」というような用語を聞いて以来、「ケア」になんとなく“世話する感じ”、というか“上から目線”のような物を感じていたせいもあるのかもしれません。
遠藤先生は、お話の中でCURE(キュア)とCARE(ケア)の定義をはっきりさせておられて、私としては改めて「グリーフケアでいいのだ」と確認が出来たのです。私の感じていた「ケア」への違和感は「キュア」に対するもので、こう見てみると確かにグリーフにキュアは出来ないことがわかりますが、ケアは出来るということがはっきりしてきました。
CURE(キュア) | CARE(ケア) | |
認識の原点 | 生を基点 病を治す |
老い、病、死を基点 |
目的 | 健康に戻る | 意味ある生の完成 |
立場 | 治療者は患者から見て指導的立場 | 共に老い、病むべき仲間 |
もう一つは上記のケアの概念でもある「共に病む」という点の再確認でした。
遠藤先生は講演の中で、医療者の立場からこうおっしゃっていました。「介護している側、ドクターにも痛みがある。人のケアをしてみると、悲しくて辛くて苦しいことが多いのですが、その時自分の魂の叫びに気付く。何も出来ない裸の自分に気付く。そうして自分自身ケアが必要な時に患者さんが教えてくれるんです。傷ついたままで大丈夫。弱いままで大丈夫。その事に気付く。そして、また誰かをケア出来るようになる。」
この話を聞いて私はGCCの上級コースで福田誠二神父(聖マリアンヌ医科大学宗教学教授、病院付き司祭)の講義を聴き、そのことを以前試験の解答に書いたことがあるのを思い出しました。
マタイ福音書の25章34-40節を通読して考察しました。
神の子であるイエスキリストは超自然的な力を持ち、「医師の中の医師」として多くの人を助け、死者を生き返らすことをも行いました。しかし同時に、自ら「弱きものにあなたが行うことはあなたが私に行ってくれるのと同じ(意味を持つ)」ともいい、弱きもの(病人)中に自分(キリスト)の姿を見るように教えたのでした。その理念の下に設立されたのが最初のホスピスとも言えるサンクト・ガレン修道院で、「病人への奉仕=キリストへの奉仕」、「病人への奉仕は喜び」という図式を実践する場となりました。
ところがここにはもう一つの意味があると思うのです。「キリストは自らを病人と同格と考えている」という事は「自己の中に病人(弱者)の可能性を見る意識」と言えるのではないでしょうか。キリストがここで示しているのは「自己が病人となる可能性を意識し、病人の中に自己を見ること」でこれによって病人への奉仕は「哀れなる物への慈善」ではなくなるのです。
さらにこの考え方を推し進めると、「キリストと自分は、自らの中に病人を見る者として同じ」という事もできるでしょう。
福田神父のお話の中で一番私の興味を引いた表現は、「理想に自分を近づけていく」「神への類似」という点でしたが、ここに「キリスト=病人=自己」という図式が成り立つのではないだろうか。病人の中に自己の中にある病を見、病人の中に自己を見るキリストを見るのです。(法月雅喜)
これをグリーフケア的に考えるとどういうことなのでしょうか。私たちは親を亡くし、友人を亡くし、最後には自らが死んでいくという「死につつある者」として生を享受しています。グリーフの只中にいる人は自らの過去であり、自らの未来であり、自らの愛する人(自分の家族)の未来です。私にとってグリーフの渦中の人を一番イメージしやすいのは妻の姿です。私が死んでグリーフのど真ん中にいる妻にかける言葉など、とても思いつきません。遠藤先生のおっしゃるように「無力な自分は只々、寄り添うことしか出来ない」のです。グリーフケアに携わる者は「共に死に向かうものとして共に生きる」事を求められているのでしょう。
帰り際に駐車場で渡辺先生に静岡の在宅緩和ケアの現状について質問させてもらいました。必要に迫られてやっている人、そしてこの必要性に気付き、積極的に行っている人、と温度差は結構あるというお話だった。先生は「私達のようなものがミッションを持ってやってかないと」とおっしゃいました。「私達」と言っていただいたのがことに嬉しかったです。
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