死産を考える(2):「赤ちゃんの死へのまなざし」を読んで

この本は死産を体験した井上文子、修一夫妻が第一子「和音」ちゃんを死産で亡くし、そしてその後、第二子、和音ちゃんを同じ病院で出産した経験を、井上夫妻、病院の長谷川充子師長の手記、や竹内正人医師を交えた座談会などを通して綴った本。死産をめぐる両親の体験や、現在の周産期の死をめぐる課題が解る、どちらかというと医療関係者向けの書籍です。

産婦人科医の竹内正人さんは産婦人科医として「救う」「助ける」で医療にかかわるうちに、「救えなかった子どもたちとその家族」に視線を移し、2006年、ホーリスティックな医療を行う「東峯ヒューマナイズドケアセンター・ラウンジクリニック」を開設。生まれた赤ちゃんの生死だけでなく、その生が父母の元に訪れたことが重要であり、赤ちゃんが亡くなっても父母である事には変わりがないという視点で医療に携わっています。

この本の中心的人物である井上夫妻は、出産予定日数日前になり胎内で赤ちゃんが死亡したことを知ります。そして、和音ちゃんを出産します。前回も書いたように、医療の中でスタンダードに行われている事と言え、死児を出産するというのはむごい、という印象がぬぐえません。しかし、井上夫妻は和音ちゃんの死に2人で向き合います。
死の宣告から出産までの短い時間の中で、「数日前の定期検診の時に「違和感」を訴えたのに異常が発見されなかった事を考えるのをやめ、(死を)わが子が選んだ人生だと思うことで一生いこうと決め」ます。そして、夫妻は「なぜ10か月間だけ私たちの子どもとしてお腹にやってきたのか、あの子はいったい何を伝えたかったのか、私たちに与えられた課題は何なのか」という難しい問いに向かい合い、ポジティブな意味を見つけ出そうとしていきます。
そして、辛い出産の後、和音ちゃんとの対面では「『可愛いね』以外の言葉が見つから」なかったと言います。文子さんはこう言いますます。

亡くなった子との対面は、罪悪感を抱える母親なら、誰でも一瞬はためらうものです。でも、そこで背中を押してくれる医療者がいれば、おそらくほとんどの母親がわが子を抱くことができるだろうと私は信じています。たとえ赤ちゃんにどんな奇形や障害があったとしてもです。(中略)私は、娘をこの手に抱いた瞬間から愛しさしか感じませんでした。娘を抱いたときの母親になった喜びだけは、一生死ぬまで忘れません。

そして修一さんは、死児を出産するという経験についてこう語ります。

和音の顔を見られるか不安に思っていたのが嘘のようでした。赤ちゃんと妻に心から感謝しました。そして出産を乗り切ったチームに感謝しました。2日前は死んだ赤ちゃんを自然分娩することがいかに残酷な作業かと思っていました。しかし、実際は違っていました。このプロセスがなければつらさしか残らなかったでしょうし、親という実感は得られなかったと思います。死んだ赤ちゃんだからこそ、親になる時間と過程が必要でした。それが自然分娩というかたちだったと思えたのです。死産という結果は変わりませんが、そのときは間違いなく達成感のあるお産でした。

出産から、火葬に至る経験は、全体としてはもちろんつらい経験で、また、個々のプロセスには不満もありましたが、概ね、井上夫妻にとって納得できるものであったようです。
修一さんは出産後にへその緒を切ることが出来、退院の時に着せるはずだった白い服を着た和音ちゃんは、ちゃんとした棺に納められ、家族は赤ちゃんと一緒に写真を撮り、出棺の日には両親、友人達が和音ちゃんに会いに来てくれています。病院は普通の赤ちゃんの時と同じように足型の付いた誕生記念アルバムを用意しており、そのアルバムを「おめでとう」の言葉と共に井上夫妻に渡しています。
数年前まではこういったことは全く考えられなかったことかもしれません。文子さんは言います。

死産なのに、「おめでとう」なんて・・・と思われるかもしれませんが,私は和音を出産後ずっと和音に詫びていたのは、誰からも「おめでとう」を言ってもらえないことでした。(中略)それだけに、「おめでとう」と言ってもらえたときには、本当に嬉しく「和音、よかったね。おめでとうって言ってもらえてよかったね」と語りかけました。

死んでしまった子供を、生きている赤ちゃんと同じように扱う事、死んでから生まれてくるという矛盾した誕生を持ってその子供をいなかった事にしない事、戸籍に乗らない子供も親にとっては確実に存在し、し続ける存在であることを認め、皆で覚えている事、それが重要なのだと思います。周産期の死に理解が深まり、医療機関や、葬儀業界での対応が進むことを望みたいと思います。

さらに、この本の後半では竹内医師が周産期の死についていくつかの洞察を展開しています。
第一に、周産期に子供を亡くした親へのケアは、出産を「正常な人間の営みの一つとして、産む女性と家族を中心に継続的、主観的な物語としてナラティプでとらえ」る助産師には受け入れやすいが、出産を医療的なモデルで考える医師には受け入れにくいのではないか、といいます。
そして、グリーフケアが十分な人間的な関係の確立なしに行われ、「亡くなった子どもとの触れ合いをすすめることや、子どもと写真を撮ったり、足型や髪の毛を遺したりすること」がマニュアルによって進められるルーチン業務になってしまえば、それは本質的な「寄り添うケア」とは乖離してしまうという点を指摘しています。
それに対して竹内医師は、自らの考え方として、「周産期のグリーフケアのコアコンセプトは、ずばり「生きて産まれてきた子と同じように接する」事である」と言います。生まれてきた赤ちゃんを生きているのと同じように扱うことが出来れば、些末なテクニックなどは問題にはならないはずだ、と言います。「生きている赤ちゃんを冷蔵庫には入れない」「通常の出産のときにお母さんに「会いますか」とは聞かないのだから、会うのが当然と考えるものだ」、という考え方に象徴される姿勢が必要なのではないかと言います。

一点、井上夫妻や竹内氏の考えている医療がもっと退院後のグリーフケアに関わるべきだという考え方には限界を感じたことを申し上げておきたいと思います。周産期の死を体験した親のサポートは継続的であるべきで、「退院では終わらない」という事にはもちろん同意します。しかし、医療者が、患者との人間的関係を退院後も維持していくのはなかなか現実的ではありません。1か月検診の時に死産を経験した親に特別な配慮をする、というのは是非お願いしたいことですが、それ以上の長いスパンでのグリーフケアを医療機関やそのスタッフに期待するのは難しい事であると私は感じました。

周産期の死やそれを取り巻く問題を扱った本として、非常に勉強になる内容で、医療関係者のみならず、葬儀関係者にも是非読んでいただきたい内容です。下のビデオは井上夫妻と和音ちゃんの記録。

竹内正人氏関連リンク
オフィシャルサイト内「誕生死について考える」
オフィシャルブログ

「赤ちゃんの死へのまなざし」 – 両親の体験談から学ぶ周産期のグリーフケア
竹内正人 (編著), 井上文子 (著), 井上修一 (著), 長谷川充子 (著)
中央法規出版

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